芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

アンドレ・ブルトンの「ナジャ」再読

 ずいぶん昔に読んだ本を、あらためて読み通してみたが、やはり、昔と変わらず、無知無学の私にはよくわからなかった。ただ、この本の著者がトロツキーに会ったのはアメリカに亡命した時ではなく、巻末の年譜によれば、一九三八年にメキシコに旅行した際に会っていたと書かれている。こんなことはどちらでもいいのだが、私はてっきり著者がアメリカに亡命した時に会ったとばかり思い込んでいた。年譜によれば、著者が亡命したのは一九四一年だった。一九四〇年にトロツキーは暗殺されているので、著者が亡命したときにはトロツキーは物故の人だった。

 

 「ナジャ」 アンドレ・ブルトン著 稲田三吉訳 現代思潮社 1964年3月30日第3版

 

 浅学による私の理解不能状態に加えて、人間理解や人間解放に「無意識」を特別視することは私にはない。当たり前の話だが、「無意識」でこの世をまっとうできない。また、著者はこの本の中で、賃金労働者を奴隷と呼び、彼等を拘束する秩序に対して抗議・反抗する自由を行使したときに限り彼等は人間になる、ナジャに向かってそういった趣旨の演説をしている。(本書68~72頁参照)。ところが、これまた当たり前の話だが、人間の歴史の根底を支えてきたのは、労働者・農民が「衣食住」を生産する労働だった。これを経済学的な言辞を弄すれば、人間は、年々歳々、生産手段と生活手段を再生産する存在だった。従って、遠大な理念を構想する「知識人」、痙攣する美を表現する「芸術家」、しかし彼等の生存(衣食住)を支えているのは労働者・農民の剰余生産物だった。資本主義社会で生きてゆく場合、私のように無知無学の人間でも「金」(貨幣)がなければ餓死することくらいは知っている。他人や社会の援助があればまた話は別だが。おそらく「知識人」や「芸術家」も彼等の作品を商品として人間の大半を占める労働者・農民ときに学生に購入してもらい、その「金」でもって生活するのだろう。あるいは講演料かも知れない。役所が購入するのかも知れない。でも役所が買ってくれても、その原資は民衆や企業から取り立てた税金だ。それともひょっとしたら別にどこかで働いて賃金をもらっているのかも知れない。従って、ブルトンの演説は浅薄な革命論あるいは傲慢無礼というより、寧ろ滑稽だ、私にはそう聞こえた。

 読書には、さまざまな感想文があっていいのだと思う。小学校の先生も、「ヤマシタ君、君の思ったとおり、感じたとおりに書きなさい」、そう指導していた。私のこの駄文もその一つだ。