芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ツェランの「迫る光」、記憶の否定の不可能性について。

 私の記憶は狂っているのだろうか? というのも、私はこの本はかつて買ったことがない、そう記憶してるのだった。だが、恐ろしいことだが、数日前、本棚の片隅にこの本が立っていた。

 

 「迫る光」 パウル・ツェラン著 飯吉光夫訳 思潮社 一九八四年五月三十日発行

 

 去年、所謂「アウシュヴィッツの文学」を勉強していて、「パウル・ツェラン詩文集」(白水社)を読み、読書感想文をブログに書いた。その文は「芦屋芸術十号」にも発表している。ツェランへの私の考え方はそこでほとんど書き尽くしたと思われるので、ここでは触れない。興味のある方はそのブログを参照して欲しい。

 ところで、私は、去年「パウル・ツェラン詩文集」を買うまで、ブログで書いたとおり、二十代前半に「迫る光」という詩集を梅田の旭屋で立ち読みしただけで、ツェランの本は一冊も手もとにないと記憶していた。しかし、現実は違った。私は三十五歳の頃、ふたたび梅田の旭屋で「迫る光」の新装版が出版されているのを知り、それを買って読んでいたのだった。

 それでは何故、新装版「迫る光」を購入したことを私は忘却していたのだろうか? おそらく、二十代前半で立ち読みした「迫る光」に強烈な印象を持ったため、その古い記憶が頭の中に固く刻みつけられたまま、三十五歳の時に買った新装版「迫る光」の読書体験を忘却していたのだろう。そして、その時の記憶が、三十五年余りの後、アア「迫る光」を買っていたんだ! 私の頭にいきなり復活したに違いない。

 ここ数日、この詩集を四回読み直した。特別に関心を持った作品は何度も繰り返し読み直してみた。けれど、やはり、わからなかった。不思議なことに、ツェランの作品がわからないことに、何故か安堵のようなものを覚えた。私は思うに、ツェラン自身わからないものからの私信が、そのスサマジイ言葉が、彼の言う「定めの文字」が頭の中を狂舞していたのではないか。もはや二度と再会するすべもないものたちが夜ばかりか、白昼でも訪問して来たのではないか。

 

 ぼくはあなたを抱きとめる、

 すべての

 安息のかわりに。

 (「あらかじめはたらきかけることをやめよ」最終連、本書146頁)