芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

最近読んだ詩誌7冊

寄贈された7冊の詩誌を読みました。

布29号      2012年4月30日発行
知井14号     2012年5月25日発行
ココア共和国    2012年7月7日発行
サルとび43号   2012年7月20日発行
快傑ハリマオ9号  2012年7月20日発行
KAIGA91号  2012年7月31日発行
すてむ53号    2012年8月10日発行

布29号は、寺田美由記「消息」、先田督裕「黄色い色」「祈り鶴」、この詩は折り鶴ではなく祈り鶴と題しているのに注意しなければならない、小網恵子「夜のタオル」、宮地智子「いのり」、杜みち子「一輪車」、太原千佳子「オリオン座の蝶」、太原の言葉<なぜひとはぼろぼろ>(最終連第一行)は痛切に響く、阿蘇豊「乾季にて、ホーチミンー2011年12月」。それから<ひとこと>欄がある。僕は犬と猫と一緒に暮らしているため、特に杜みち子の犬と猫の話は理屈抜きで妙に納得してしまう。「何をどう考えてよいのか、わからない日々である。今のところ、猫は特に不幸そうではない。」、この杜の認識はとてもステキだと思う。

知井14号。これは名古きよえの個人誌である。寄稿された詩二篇。水谷なりこ「大阪WCT55階からの夕景」。高山利三郎「帰郷」。名古きよえの連載第12回目の「知井の歴史」。名古きよえの詩三篇、「朝の海に」「鰻つかみ」「小島の風景」。それから名古きよえの旅の思い出「インド旅行より」。これは日本詩人クラブが企画したインド旅行に参加した思い出のあれこれ。タージマハルにも寄られたそうで、インド旅行の定番ではあるが、以前、僕も立ち寄っていて、それを思い出して、また旅がしたくなって。次にタゴールの詩の紹介。エッセイ「美山(知井)へ移住した女性」。とにかく個人誌にしてはよりどりみどりの花園ではある。

ココア共和国10号。池井昌樹、小詩集「彩月」。「彩月」「豚足」「花嫁」「夕餉」「除夜」以上5篇。一倉宏「水月の日記」<「いろは歌」を現代的に>。雨女薬「わすれてください」「うつつ」。石井萌葉「ワルツのために」「私の中に海」「自由の海」『』(『Tamanegi』)「みみ子」。望月苑巳「テーブルの下の二十一世紀」。秋亜綺羅「3つのドリーム・オン」。ブログココア共和国。この作品雑誌、僕はウマイ言葉がないのでとりあえず作品雑誌と呼んでおくが、おそらく円運動を描いて再び表現世界に回帰した秋亜綺羅氏のこれからのさらなる活躍を期待したい。発行日は7月7日。綺羅キラ星である。

サルとび43号。岩倉律子「箱庭の部屋」。木村ミチ「そんな日の雨傘」。田中久雄「遮断する花」「朝の領域」「銅片の魚」「老婆よ/老婆」。田中久雄の作品は、おそらく絶望の観念劇と言っていいのかもしれない。ごらん、挫折する自己の言葉による自作自演が薄暗い舞台でもう始まっている。

快傑ハリマオ9号。森貘郎「滅法ー悼奥村眞」。田中エリス「不思議の国のディアスポラ」。松岡祥男「『反原発』は正義か?読捨ニャンニャン日録2」。長谷川博之「太宰治、中期の作品について」。太宰治の作品を通して、のっぴきならない自分の生活をあぶり出してゆくおそらく職業作家では出来ない実存批評のすぐれた一例であろう。井谷泰彦「戦後という特殊な時間の鎖国性」。根石吉久「近況、百姓仕事、編集後記」。申し訳ないことをしたと思う。快傑ハリマオ8号を根石氏が僕に送ってくれた時、8号に僕の詩を掲載してくれたので、お礼の意味で彼の携帯に僕は電話した、その時、彼は脳梗塞で苦しんでいて、おそらく僕の電話どころではなかったろう。本来、僕は余分な電話もしないし手紙も書かない。それが魔がさしたのか、彼に不愉快な思いをさせたに違いない。この場を借りて謝罪しておきたい。それはさておき、「たんじゅん農法」参考になりました。家内に話してやると、ネットを見ていました。林さんのことも見ていました。好気性と嫌気性の微生物の話も感心しました。余談ですが、家内は3年ほど前から趣味の農業をやっています、36㎡の農地を農家から借りて。無農薬でさまざまな野菜を作っていますが、週に1回か2回、僕も手伝っています。これは余談でした。

KAIGA91号。郷我安「グノーシス」。理久創司「一の勢い」。神田一秀、島田喜光「ためる」「のどかな春の日」「マネーと私」「幼児から大人へ」。江本洋「チャンポン」。勝賀強「前向き」。河野晋平「夕方のバス停」。神田一秀「蝶々」(俳句・川柳)。島田喜光「地を這う者(Ⅰ)」「善悪の諸相(Ⅰ)<魔がさす>について」。
私事になるが、もう20年余り昔、僕はこの「絵画」を主宰していた金高義朗と知り合った。彼にすすめられてこの詩誌の44号、45号、46号、つまり1991年6月、9月、12月に発行された三号にわたって作品を発表した。これらの作品をベースにして翌年僕は「致死量」という作品集を出した。いま、金高義朗はどうしているのだろう。
すてむ53号。水島英己「鶴ヶ城まで」。川島洋「空き地で」。閣田真太郎「道」。井口幻太郎「命運」「訪れ」。藤井章子「水無月の夜」。この水無月は地下の青色した故郷の形象化とでも言えばいいのか。おそらく彼女はその水のような青郷がある異物で汚されないことを切願しているであろう。田中郁子「七月」。長嶋南子「にゃん子外伝」。この作品は、同じ作者が<すてむ・らんだむ>欄に書いた随筆「お犬様は病気です」と一緒に読んでいただきたい。何といえばいいのか、おかしくて楽しくて淋しい。甲田四郎「箸を使う」。青山かつ子「子守」。坂本つや子「穴だらけの風」。根本明「差し出されるもの」。<エッセイ>として川島洋『「非詩宣言」をめぐって』。閣田真太郎『「水」のこと』。閣田氏のエッセイは貴重な内容だと思う。もっと詳細に書いてほしいと思う。そして<すてむ・らんだむ>。

たくさんの人と作品を通して出会えたことを率直に感謝したい。詩は無数にある。そんな思いがしました。

ところで、第2次世界大戦後、かつて戦争詩や戦争文学についておおいに論じられたそんな状況があった。戦争に対してどんな立場に立つにせよ、これは僕個人の予想に過ぎないが、これから僕ら自身に試練が来るに違いない。その時、真に主体的にどんな作品を書くか、おそらく多くの人が人間中心主義から愛国へ流れていくに違いない。いったい芸術作品への衝動とは何なのか、ユダの時がやって来るのかもしれない。