芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

高橋馨の詩的作品集「詩への途上で」

なぜ「詩への途上で」というタイトルの作品集になったのか。この作品集は、詩13篇、エッセイ3編で構成されている。答えは第13番目の詩「長い船旅」の最終行、「この頃あの時の気力をもう一度取り戻し、自己として完璧な詩的作品を一篇仕上げたい、そう望んでいる」。つまり、我れ未だ完璧にあらず、よって題して「詩への途上で」。しかし「自己として完璧な詩的作品」という表現がちょっと曲者だといえなくもないのだが。

第1番目の詩「眠れぬ男」
独居老人のガラス製のナイトメア。それは砕け、血を流す。天空から墜落したほとんど透明な小鳥のいるナイトメア。明治期、英国製の青春の哀傷からスタートした詩はいまや熟成して、孤独な老人の硝子製悪夢を形象する。

第2番目の詩「彼方から霧が」
僕は不勉強のせいもあるが、MRI体験を詩に構成する詩人を知らない。この作品が初めて。この体験は奇妙な被害意識へ傾いていく。すなわち、脳の「梗塞はMRIが穿った穴ではないか、そこから絶え間なく乳白色の霧がわずかずつ漂ってくるらしい」(最終連)。この乳白色の霧はひょっとしたらバイクではねられて死んだ母のそれかも知れない。成程。これがMIRと梗塞の真実か。さらに言えば、私の脳穴から母の乳白色の霧が漂ってくるのかも知れぬ。

第3番目の詩「しじみ峠」
この詩を読んで、やっと僕らは気付くのだが、この詩人は現実と幻想の中間地帯をふらふら歩行しているのだと。なぜ「ふらふら」かと言えば、現実が幻想だったり、いやむしろ幻想は現実ではないか。だから例えば、しじみ蝶でさえふらふらしていつの間にか終わりに近づいて、「母が生前よく作ってくれた味噌汁」のしじみ貝に移行してしまう。そしてこの時、僕らはこの本の扉に書かれていた「母の思い出に」という言葉を眼前に思い浮かべている。

閑話休題。いま、僕はこの作品集の解説や紹介をしているのではない。僕もそれなりに忙しくて、そんなヒマなんてありません。ただ僕はこの作品集を僕の脳内へ注入して、楽しんだり興奮したり、あげくの果て、違った言葉に昇華しているだけなんです。

第4番目の詩「赤い洋傘」
詩人個人としての母の思い出の清楚な形象化。すべての修辞は既に散り落ちて。

第5番目の詩「やまわらは」
おそらく怪異譚だと言っていい。しかし、「やまわらは」は「子供の白骨死体」へ、また「ヤマンボ」に、「野猿」にまで変化して。そして不意に現れた旅装束の僧がその泥にまみれた骨を笈に背負って立ち去っていく。かくて怪異は消え「やえんという聞き慣れない言葉」だけが残る。怪異の具象物が透明な「やえん」という音響へ移行している。これがこの詩人の魔法の鍵か。

第6番目の詩「木の股」
散歩の道端に落ちていたY字型の木の股。それを机の上に逆さに置く。
「どこか艶めかしい。股の切れ目のところがやや盛り上がっていて、縦に裂け目のような筋がかすかに認められる」。小学生の猥談じみてくる。そして最終連に続く。すなわち、「庭木の名はなんと言うのだろう。人は木の股から生まれたという俗説もある」。ここで注意して欲しい、「庭木の名はなんと言うのだろう」、この一行のとぼけた転調をじっくり味わっていただきたい。小学生低学年のエログロへ落ちる寸前、ヌッと顔を出す、このとぼけた一行。

おやすみなさい。今夜はここまで。