芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

沖縄

2011年5月24日(火)関西国際空港9:30発ANA1733便。那覇空港着11:35。

いまにも雨が降りそうな那覇空港からDFSギャラリア沖縄へ。三回目の沖縄だが、昔はこんな免税店などなかった。急ぎ足でお店を見て回ったが、とりたてて欲しいものもないし、この建物を出て、近くのマーケットへ。確か勝乃屋というお店だったろうか、定かではないが、黒豚のカツと沖縄そばをオリオンビールを飲みながら家内と二人で昼食。偶然入ったお店だがここのお店のトンカツはオススメ。ことのついでに、「北谷長老」という泡盛も。
首里城公園に着く頃から、辺りに霧雨がけむり出した。初めて沖縄に来た時、もう二十年くらい前の話だが、そしてその時もここに立ち寄ったと思うのだが、初めてきた気持ちがする。全体が新調されたのか。一通り回ると、ほとんどの観光地の定番だが、最後にお土産屋があり、僕は沖縄の高等学校の教科書「琉球・沖縄の歴史と文化」(2010年1月17日発行、著者新城俊昭)を買った。帰宅してからおおよそ二十日余りかけてゆっくり読んでみたが、賛否は別として、沖縄を考えてみたいと思う人には必読書に近いと言っていい。

いつの間にか霧雨はあがり、ふたたび頭上は曇天。読谷村へ。
1945年3月26日早朝。米軍、慶良間諸島へ上陸。
同年4月1日午前8時30分。米軍は沖縄島の中部西海岸への上陸作戦開始。日本軍の反撃もほとんどなく、米軍の無血上陸。
2011年5月24日。その中部西海岸、読谷村の沖縄残波岬ロイヤルホテルが今夜の僕のお宿である。
2011年5月25日。ホテルを午前9時に出発して、御菓子御殿、ナゴパイナップルパーク、森のガラス館、沖縄海洋博記念公園。ひとつだけ言っておく。昔、この辺りでマングースとハブのケンカを見世物に出して沖縄観光の定番だったが、それが残酷だから禁止されたらしい。夜行性動物を昼間ケンカさせるという不思議なショーだったが。
2011年5月26日。午前9時、ホテルを出る。確かこの5月の中旬から下旬にかけて争闘したシュガーローヒルの戦いで、日本軍の斬りこみ隊などの捨て身の猛攻で、米軍は約2700人の戦死者と約1300人の精神障害者を出したんだって。日本軍も4月上旬から5月中旬までで、アジヤ太平洋戦争で最大の2万6000人の戦死傷者を出したんだって。
黒糖工場、琉球村、おきなわワールド、ひめゆりの塔。実はこのたび沖縄を観光したのも、僕の家内は東京の西新橋生れでもちろん今では僕と関西で生活しているのだが、沖縄には行ったことがない。だがらはっきり言っておくが、この旅行は奥さん孝行の旅行だ。そうだ。いや違う。僕が家内にそんな口実を押し付けただけか。
沖縄発17:10ANA1738便。関西空港まで。飛行機に搭乗中、機内でビールを買って、僕は家内にまくしたてた、つまり、率直に言って、僕は「日琉同祖論」に組しない、1609年3月、薩摩が琉球を侵略して以来、僕は沖縄を日本の植民地だったと思っている、「植民地だった」と過去形でいうのも、1945年6月22日か23日以後、米軍の植民地になって、それはまた周知の通り、多少の濃淡の差はあれ、現在まで、僕らの生活の場もまた同病で、柳田国男が1952年に雑誌に連載し「海上の道」として単行本を出版したのが1961年かあ、ちょっと、意味深長だなあ、それはさておき、僕が沖縄という島を初めて見たのは、日本復帰するのが1972年5月15日ってわけわかんない日だったから、とにかく復帰二年ほど前だったなあ、オイ聞いてるか、奄美大島から一ヶ月ほど放浪して島々を南下した果て、その頃の日本の最南端、真っ青の空の下、与論島からなぜか悲しい気持ちでじっと見つめた八月の沖縄島だった……