芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

stem vol.50

いま<フクシマ>という奇妙な言葉が、棺桶を閉ざす杭の音のように反響している。それは生きんとする意志を永続して打ち砕く不気味な弔鐘であると同時に、地底から徐々に拡大してやがて山津波のように襲いくる民衆の激烈な怒声の序曲かも知れない。
つまり、僕等の耳には冷たくなって棺桶に横たわるまで<フクシマ>という通奏低音が鳴動して止まないのかも知れない。あるいは僕等が発狂する行進曲の最初のシンバル、いきなりギョッとして肩をすくめて辺りをうかがう、余りに肥大化した僕等の欲望がこの21世紀で終焉を迎える最初のシンボル、おまえ達は必ずとても無惨な姿で死滅すると、シンバルの残響がいつまでも叫び続けている……第一楽章が始まった。既に観客は固唾を呑んで沈黙している。第四楽章の後半に来て、僕等は初めて過剰な欲望の必然性のいったい何たるかを思い知るだろう。

覚えず序曲が長くなってしまった。今号の「すてむ」を通読して感じるのは、特に「すてむらんだむ」に書かれた詩人たちの言葉に、僕は何故か彼等の背後に凍りつく暗い影を見てしまう。いや、そうではあるまい、単なる僕の思い過ごしだ。こんなほとんど通夜めいた話を深く論じるのは止そう。

藤井章子の詩「遽走る船」。
ひとりの個人ではなく類としての人は水車のように、生死を繰り返すのであってみれば、その原初の風景はエロスの海であろう。夢の子宮の海を疾駆する船。昔の詩人たちが言うように海が女性なら、船は男性に違いない。でもこんな象徴劇ならどこにでも転がっているし、ほとんど通俗を脱し得ないだろう。しかし藤井の詩にはそれ以上のものがある、それ以上の闇に蹲っていて。
僕は彼女の詩に、詩の破綻の匂いを嗅ぐ。彼女の「すてむらんだむ」の文章と併せて、これらの言葉の群れを見つめていると、これはあくまで比喩に過ぎないとはっきり断ってはおくが、薄暗い部屋の天井を見上げて仰向けに横たわった女の姿が彷彿する。