芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

シェムリアップ第二夜

3月11日(金)。
5時過ぎに起きて、アンコール・ワットの中央塔からあがる朝日を西参道から見るために。

バスの車窓からやがて薄明の中に浮かび上がる堀とその向こう側でじっとうずくまる暗く固まったジャングル。東西約1500m、南北約1300mの堀で囲繞され、夜が白むに従って明るみに出る、巨大な紫と黒と灰の世界。堀の水面は泥のようなジャングルを映し、車窓からはもちろん見えないがその奥の中心には中央祠堂があって、それは須弥山を象徴するという。

バンテアイ・スレイへ行く途上、道路の左右に高床式の木造建築の村落が続いている。熱帯の雨季のために高床式になっていて、水道もなく、自家発電しているということだが、ほとんど弥生時代に紛れ込んでしまった錯覚を覚えるのも僕一人ではあるまい。
967年、ラ―ジェンドラヴァルマン二世に創建されたバンテアイ・スレイは、そのレリーフもふくめてもっとも美しいアンコール遺跡だと言えるのかもしれない。「東洋のモナリザ」と呼ばれるデバター(女神)のレリーフをかのアンドレ・マルローが盗掘して国外へ持ち出そうとして逮捕されたというが、まあ、仕方ないと言う他ない。

午後から早朝朝日を見たアンコール・ワットにふたたび。ここは余りにも言語及びがたく、ガイドブックを見ていただくか、あるいは直接訪問するべき場所だと思う。

だから、僕もこの程度の知識を披瀝してお茶を濁すとするか。

壁のレリーフによく登場する蛇神ナーガが常にヴィシュヌ神が乗った神鳥ガルーダの下で踏みにじられているのは、おそらく蛇神は先住民の信仰で、外からやって来た権力者の信仰「ヒンドゥー教」や結局それと同一視された「仏教」によって抑圧され、権力維持のために利用されている姿であろう。あるいは宥和政策と言わなければならないか。

アンコール・ワットの第一回廊南面東側のレリーフには、極楽と地獄が彫刻されている。壁面を三段に分割し、上段には極楽、中段には地上界、下段には地獄が描かれている。つまり三段に分割して世界を表現せんとする思考であろう。この思考方法は日本人にもこびりついて、ほとんど価値の基準にまでなっている。わかりやすく言えば、この世の上は極楽で善であり、この世の下は地獄であり悪である。この二元論の思考はまた、自分があるいは自分が所属する集団が善であると決定した思考は極言すれば絶対であり、他人の善を否定しさらに弾劾までするであろう。

「アジアでは、世界は他の地域でも多く見られるように、宇宙の構造は大きく見て三層――天上、地上、地獄――をなし、中央を貫く軸で連結していると考えられている。この軸は「開口部」、「穴」をとおって立ち、この穴から神々は地上に降りて来るし、死者は地下の国に下っていく。またシャーマンの魂が天界や地獄に旅する際にも、ここをとおって飛翔したり、降下したりする。この三つの世界――それぞれ、神々、人間、地獄の王と死者たちが住んでいる――は、したがって、三枚の重なった板のようにイメージされている。」(エリアーデ著「世界宗教史5」31頁ちくま学芸文庫)

ベトナムでも、カンボジアでも、日本のNHKテレビは放送されている。

18時頃、ホテルに帰って、NHKを見る。巨大なビルディングのような波。黒い万里の長城のような波。彼等が東北の海岸を襲撃し、漁船も並木道もおびただしい車両もなぎ倒し、飲みほして。逃げまどう蟻に似た車両が疾駆する道路を越えてさらにその涯まで。

1965年11月14日。イア・ドラン渓谷の戦い。これは北ベトナム正規軍とアメリカ軍との最初の戦闘である。それから「サーチ・アンド・デストロイ作戦」。これはナパーム弾による無差別攻撃である。それからさらに米軍はいわゆるホーチミンルートを断つためにラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うことになる。

1971年1月。USAはカンボジアのロン・ノル政権を支援。

1973年1月29日。ニクソン大統領、ベトナム戦争の終結を宣言。

1973年3月29日。USA、ベトナムから完全撤退。

1975年4月1日。USAの支援を失ったロン・ノルはハワイに亡命。クメール・ルージュが首都プノンペンに入城。

1998年4月。ポル・ポトは山中で死去。言うまでもなく彼の輝かしかった民主カンプチア(1976-1979)時代、飢餓、虐殺、疫病などで100万人を超える死者が。