芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「彼女」第五章

 夕方、また「正夢」で落ち合った。雨が降る平日で、ほとんど客は見えなかった。高齢の男性が一人、カウンターで酒を飲みながら小皿からシメサバを箸でつまんでいる。

「奥の座敷を使っていいよ」

 ママの言葉に甘えて、カウンターとテーブル席の間を抜け、上がり框で私達は靴を脱いだ。

 座敷といっても、西の出入り口から東に向かっておおよそ七メートル前後の突き当り、南北に幅四メートルあるかないか、奥行きは二メートル足らずだろう。手前と奥と二人ずつ座れる食卓が三つ並んでいて、南北の両側の壁に向かったそれは壁との間にも一人座れるので五人掛け、真ん中は四人掛け。各食卓の間は三十センチほどで、食卓の奥に座るための狭い通路になっている。

 北側の食卓を選んだ。私は狭い通路に足を乗せ奥の席に座った。食卓の下は掘りごたつになっていて、椅子に座っているように両足を伸ばしてくつろぐことが出来た。彼女は私に対座して、

「まずビールにする?」

 酒の肴を選ぶのはすべて彼女まかせ。夜飲むとき、私はあまり食べなかった。人が選んだ料理をつついて、あとは飲んでばかり。生ビールを二杯飲んだ後、「焼酎はどう? 銘柄何にする?」と彼女。二人でそれを飲みだした。いつになく彼女はおしゃべりをした。自分の過去をこまごまと話し出した。悲しい過去だった。具体的に書くことはしないが、二十代で離婚。子供を育てながら、三十代になって再婚しようかと思った男の非情な面に気付いて、断念して別れていた。私は真顔で話す彼女を見つめてばかりいた。目が潤んでいるのが、わかった。

 九時になっていた。

「これからどうする」

「夜の芦屋川でも歩かない」

 弱い雨が降っていた。四月の終わりに近づいたというのに、肌寒くて私達は身を寄せ合って歩いた。私の右手が支える傘の下を二人は芦屋川沿いにさまよった。足もとが少し濡れている。「寒いわ」。彼女の左肩に置かれていた左手で私は激しく抱きしめていた。夜の九時を過ぎて、小雨の降る川のほとりにはもう誰もいなかった。

 芦屋川の堤の闇の中で、私達は愛しあった。