芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

選択本願念仏集

 この歳になるまで、ボクは法然の文に直接触れたことはなかった。また、そんなことを考えもしなかった。心変わりがしたのは、おそらく、四十三年間、愛しあったワイフと死別した、仏教でいう「八苦」の中の「第五苦」にあたる「愛別離苦」と言っていいのだが、そうした境界の中で、過日、空海を読み、つづいて、この本を読んだ。

 

 選択本願念仏集 法然著 石上善應 訳・注・解説 ちくま学芸文庫

 

 ボクは宗教学や宗教哲学の専門家ではないし、また、一切の学問の専門家でもなく、ただ、巷間の片隅に座して本を読む、無学な読書家に過ぎない。従って、法然に対して何か新しい発見や異論を持っているわけではない。もちろん浄土宗の信者でもない。他愛ない読書感想文ではあるが、一文を草して、まだこの集を未読の方の何かの参考になればと思うばかりである。。

 法然六十六歳の著作、この集の根底に流れている言葉を敢えてあげるとすれば、これだろう。

 

 『大経』に云わく「もし衆生有りて、縦令一生悪を造るとも、命終の時に臨んで、十念相続して、我が名字を称せんに、もし生ぜずといわば正覚を取らじ」(本書23頁)

 

 さらに端的に言えば、訳者石上善應氏のご教示の通り、この集の巻頭に書かれたこの一行だろう。

 

 南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先(本書345頁、石上氏の解説から)

 

 ところで、法然は何故、その当時の宗教界の主流であり自身も修行した所謂「聖道門」、筆舌に尽くしがたく身をもって学んだその経行を一切捨てて、南無阿弥陀仏一行の「浄土門」を選択したのだろう。法然の思考のその一端は以下のこの文によく表現されている。かなり長い引用になってしまうが、法然の慈悲に満ちた文を味わっていただきたい。

 

「若し夫れ造像起塔を以て本願とせば、貧窮困乏の類、定んで往生の望みを絶たむ。然も冨貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。若し智慧高才を以て本願とせば、愚鈍下智の者は、定んで往生の望みを絶たむ。然も智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。若し多聞多見を以て本願とせば、小聞小見の輩は定んで往生の望みを絶たむ。然も多聞の者は少なく、小聞の者は甚だ多し。若し持戒持律を以て本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望みを絶たむ。然も持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行、これに准じてまさに知るべし。まさに知るべし。上の諸行等を以て本願とせば、往生を得る者は少なく、往生せざる者多からむ。

 然れば則ち弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せむが為に、造像起塔等の諸行を以て往生の本願としたまわず。唯称名念仏一行を以て其の本願としたまえるなり。

 故に法照禅師の『五会法事讃』に云わく、「彼の仏の因中に弘誓を立てたまえり。名を聞きて我を念ぜば、惣迎えに来らむ。貧窮と冨貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞にして浄戒を持つを簡ばず、破戒にして罪根の深きをも簡ばず、但使心を廻して多く念仏せば、能く瓦礫をして変じて金と成さしめむ」(95頁)

 

 狭い了見でものを言うが、空海と法然を読んだ限り、ボクは仏教全般にはまったく無知であるので大きなことは言えないが、彼等ふたりを読んだ限りにおいて、人は本来仏である、こういっていいのだろう。そして、ひょっとすれば、本来の仏がその凡夫を強く促した時、人は化身仏としてこの世を生きる定めを背負うのかも知れない。詳細は本書を読んでいただくことにして、少なくとも、師と仰ぐ善導和尚を法然は化身仏と見た。法然は自分のすべてを善導和尚、すなわち、阿弥陀仏にまかせた。南無阿弥陀仏一行が、アルファでありオメガとなった。ボクのような俗物にはほとんど信じがたい話だが、法然という人もまた全身阿弥陀仏に化身していたのかも知れない。

 

「南無阿弥陀仏というは、別したることには思うべからず。阿弥陀ほとけ、われをたすけ給えということばと心えて、心にはあみだほとけ、たすけたまえとおもいて、口には南無阿弥陀仏と唱うるを、三心具足の名号と申すなり」(つねに仰せられける御詞)(203頁)

 

 確かに、ほとけが存在するのかしないのか、そして、ほとけはほんとうに救済してくれるのかしてくれないのか、罪悪深重のこのわたくし、煩悩熾盛のこのわたくしが決定することではない。ほとけが決定するのである。