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空海コレクション4

 この巻では、「他縁大乗住心第六」、「覚心不生住心第七」、「一道無為住心第八」、「極無自性住心第九」、「秘密荘厳住心第十」の五住心が収められている。空海コレクション3の五住心と併せて「十住心論」のすべてが明らかになる。

 

 空海コレクション4 福田亮成校訂・訳 ちくま学芸文庫

 

 壮大な「十住心論」の全景を眼前にして、振り返ってみれば、空海は力を尽くして、読者たるボクの心のすべてを明るみに出そうとしたのだ、ついそんなふうに、自分に引き寄せて考えてしまった。すなわち、彼は「大日経」を引用して言う、

 

「秘密主、云何なるか菩提とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」(空海コレクション3、27頁)

 

 ところで、無宗教という言葉はとてもアヤシイ表現だと思う。何故といって、「宗教とは何か」をまったく理解していない者が、「わたしは無宗教です」というのもちょっと変な話じゃないだろうか。喩えは悪いが、読んでもいない本をしたり顔で批判する人と似たり寄ったり。とはいえ、とにかく、一応、ボクは無宗教な人間だとしなければならない。例えば修行とか、布施とか、そういった宗教的行為をいままで一切していないから。従って、読み終えた「十住心論」の中で、結局、ある程度ボクにも理解できたのは、地獄や餓鬼や畜生が住んでいる第一住心「異生羝羊心」くらいだった。

 そこで、まず「空海コレクション1」に収録されている「秘蔵宝鑰」から始める。天長七年(830)に淳和天皇の勅命にこたえて、空海五十七歳の時、「十住心論」を撰述する。これを広本として、さらにコンパクトにした略本「秘蔵宝鑰」を上梓した。

 さて、「異生羝羊心」とは何か。異生は、愚かな凡夫、羝羊は、牡羊。食べることやセックスだけが生きがいになってしまった者の喩え。「凡夫、狂酔して善悪を辯えず、愚童、癡暗にして因果を信ぜざる」(空海コレクション1、53頁)。つまり、こういう悪いことをやっていたら、地獄に堕ちちゃうよ、そんな助言なんてまったく信じない、耳さえ傾けない、馬耳東風、例えば、ボクのように。そういう凡夫の心を「異生羝羊心」という。

 

 凡夫は善悪に盲いて 因果あることを信ぜず

 但し眼前の利を見る 何ぞ地獄の火を知らん

 羞ずることなくして十悪を造り 空しく神我ありと論ず

 執着して三界を愛す 誰か煩悩の鎖を脱れん(同書、59頁)

 

 ちなみに、十悪は、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見。三界は、欲界・色界・無色界。これで「異生羝羊心」とは何か、だいたいの見当はついたと思う。それでは、すすんで「空海コレクション3」の「異生羝羊住心第一」に移り、更に詳しく点検したい。

「衆生は狂迷して本宅を知らず、三趣に沈淪し四生に(足偏に)令跰す。苦源を知らざれば還本に心なし」(空海コレクション3、24頁)

 三趣とは、地獄・餓鬼・畜生の三種の世界。所謂三悪道。(足偏に)令跰すとは、さまよい苦しむこと。四生とは四種類のあらゆる生物。胎生・卵生・湿生・化生。余談になるが、おそらく西暦800年前半のこの時代では、湿った場所から生命体が自然発生する「湿生」が考えられていたのだろう。1861年、パスツールが「自然発生説の検討」を発表して、それまで信じられていた自然発生説を否定した。昔、岩波文庫で読んで感銘した記憶がある。つまらんことを思い出してしまった。

 さて、さらに空海はこう言っている。ここは彼の言葉に心を澄まして、傾聴していただきたい。

「もしよく明らかに密号の名字を察し、深く荘厳秘蔵を開けば、すなわち地獄・天堂、仏性・闡提、煩悩・菩提、生死・涅槃、辺邪・中正、空有・偏円、二乗・一乗、みなこれ自心仏の名字なり。<中略>。もし竪に論ずれば、すなわち乗乗差別にして浅深あり、横に観ずれば、すなわち智智平等にして一味なり」(同書、26頁)

 噛み砕いて言えば、地獄・餓鬼・畜生という住宅を転々として狂酔しているボクが、天堂と平等にして一味だと言っている。先にも述べたように、「十住心論」の底に、常に「大日経」のこの言葉が流れている、ボクにはそんな気がしてならない。

 

「秘密主、云何なるか菩提とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」(同書、27頁)

 

 

 ボクは無宗教な人間だ、これについては既に書いた。だから、第二住心から最後の第十住心まで、つまり、人間が道徳心に目覚め、人間らしく生きたいと願い、小乗仏教から大乗仏教へ、そして法身仏大日如来に至るまでの心の世界について積極的にもの申すことは出来そうにない。ただ、いまだ第一住心の地獄に住んでいる凡夫として、無茶を承知で、「秘密荘厳住心第十」を読んだボクなりの感想文にチャレンジしてみたい。

 先ずは「秘蔵宝鑰」の「第十秘密荘厳心」から。

「一切衆生は本有の薩埵なれども、貪・瞋・癡の煩悩のために縛せらるるが故に」、<中略>、「修行者をして内心の中に於て日月輪を観ぜしむ」。<中略>。「我、自心を見るに、形、月輪の如し。何が故にか月輪をもって喩とすとならば、為わく、満月月明の体は、すなわち菩提心と相類せり」(230-231頁)。

 瞑想という修行を通して、果してこういう境界に至るのだろうか。宗教に無縁なボクにはわからない。この後、金剛界曼荼羅の説明があり、ついで密教の瞑想方法ー阿字観、五相成身観に言及されるが、闇夜の山道をはだしで歩き回って人家を探しているような、途方に暮れた気持がした。阿字は一切諸法本不生の義、そう言われても、サンスクリットも漢籍もチンプンカンプンのボクには取り付く島もない。例えば、五相成身の観想が成就すれば、こうである。

「この観、もし成ずれば、十方国土のもしは浄、もしは穢、六道の含識、三乗の行位、及び三世の国土の成壊、衆生の業の差別、菩薩の因地の行相、三世の諸仏、ことごとく中に於て現じ、本尊の身を証して普賢の一切の行願を満足す」(同書、242頁)

 浄穢ことごとくみな現じる光景、いったいなんという言いがたい心だろう。更に、言う、

「凡、今の人、もし心決定して教えの如く修行すれば、座を起たずして三摩地現前し、ここに本尊の身を成就すべし」(同書、248頁)

 すなわち、即身成仏。

 最後に、「空海コレクション4」へ移り、「十住心論」の「秘密荘厳住心第十」の言葉にも若干触れておきたい。

「秘密荘厳住心というは、すなわちこれ究竟じて自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟するなり」(空海コレクション4、444頁)

「『大日経』王には無量の心識、無量の身等を説く。かくの如きの身心の究竟を知るは、すなわちこれ秘密荘厳の住処を証するなり」(同書、445頁)

 無宗教のクセに、意外とだらだら長文をボクは書いてしまった。空海のこの言葉を引用して筆をおく。

「この真言の相は、一切諸仏の所作にあらず、他をして作さしめず、また随喜したまわず。何をもっての故に。この諸法は法としてかくの如くなるをもっての故に。もしもろもろの如来出現し、もしもろもろの如来出でたまわざるにも、諸法法爾としてかくの如く住す。いわく、もろもろの真言は法爾なるが故に」(同書、490頁)

 真言は誰かが作ったものではない。仏でさえ作ったものではない。また、作ることができない、作る必要もない。礼を失する表現になってしまうが、あえて言えば、仏がいようがいまいが、真言とそれに応答する現象はある。もし誰かが作ったものなら、それは作られたものだから、いずれ消滅する。無常であり無我である。しかし真言とそれに応答する現象は常であり、永遠であろう。すなわち、「大悲曼荼羅の一切の真言と、一一の真言の相はみな法爾なり」(同書、490頁)。真言とその相は法爾である、あるがままのものである、ボクの耳もとで、空海はそう語り続けている。