芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

逃げるために生きる日々

 深夜の町を彼はさ迷い歩かなければならなかった。二人の男に追跡されながら、疲れ切った彼女を引きずるようにして路地裏を迷走するのだった。

 彼女、とりあえずE子とでもしておくが、日本国内で或る事情があって彼等はカンボジアで結婚していた。シェムリアップで観光客をアンコールの遺跡群に案内したり、その遺跡の発掘作業をしたり、彼女と二人でほとんどその日暮らしだった。ただ、日数を経て住み慣れてくると、アンコール・ワットの壁面に刻まれたさまざまな女神デバダーを紙を固めてかたどり彩色して彫像風に仕上げ、観光客に二十ドルから三十ドルくらいで売った。これはなかなか評判がよく、彼等はそれなりに贅沢な暮らしぶりであった。

 そんな彼等がどうして深夜の路地裏を逃げ回ってウロウロしなければならないのだろうか。薄暗いコンクリート造の階段を彼女の両手を握りしめて駆けずりあがっていた。しかしもう力の限界が来た、彼は観念していた。二人の男の足音が聞こえていた。巨漢だった。ニタニタ笑っていた。ここはカンボジアではない。日本の繁華街の路地裏だ! 次第に薄らいでいく意識の中で彼はそんな途方もない思いにとらわれていた。数秒後、彼の意識は消えた。

 あれから二十一年の歳月が流れた。現在、彼は日本国兵庫県の芦屋という小さな町の片隅で一人暮らしをしている。時折、得体のしれない五十前後の女性が門前に立って監視していたり、近所の十字路で七十近い白髪のガードマンが白いヘルメットの下から彼を見つめている。余程のことがない限り、彼は外出しない。しかし女神デバダーで稼いだ金もそろそろ尽きようとしているのだが。

 一度こんなことがあった。E子はまだ生きていて、ネパールのポカラで外国人相手に体を売って何とか生活している、そんな噂を彼は耳にした。十一年前、監視人たちの目を盗んで、彼は日本を出国しネパールに向かった。カトマンズに近づいたとき、飛行機の窓から見える雲を突き出たヒマラヤ山脈がこの上もなく美しい、ひょっとしたらE子に会えるかもしれない、そんな予兆と期待を彼は抱くのだった。

 カトマンズ空港で乗り換えた飛行機でポカラまで三十分くらいだった。フライトしている間、右手にはヒマラヤ山脈、左手はずっと遥かインドにまで下っていく、そんな風景の中を突き抜けていくのだった。ポカラの町は七千メートル級の山マチャプチャレを背にして日本やカンボジアとはまた違った味わいだった。彼は昼夜を問わず町の隅々まで歩いてE子を探した。八千メートル級の山アンナプルナが見える丘サランコットまで足を運んでもみた。彼女の消息は杳として知れなかった。

 彼はまだ芦屋に住んでいる。この三か月ほど前、二十一年前に彼とE子を追跡したあの二人の男を見かけた。相変わらず巨漢でニタニタ笑っていた。しかし初老になったのだろう、一人は白髪で、もう一人は頭の中心部が禿げていた。