芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

空海コレクション3

 空海コレクションは1と2の二冊しか出版されていない、ずっとそう思っていた。ところが、ある日、続刊が出ていることをネットで知って、早速購入した。

 

 空海コレクション3  福田亮成 校正・訳 ちくま学芸文庫

 

 この巻には「秘密曼荼羅十住心論」の第一から第五までが収録されていて、第六から第十までは「空海コレクション4」に収録され、二冊あわせて空海の主著「秘密曼荼羅十住心論」の全貌を手軽な文庫本で読める次第。「空海コレクション1」を読んでいれば、この「十住心論」の略本と呼ばれている「秘蔵宝鑰」に眼を通しているわけで、空海への理解が更に深くなる、ボクは安易な気持で本を開いた。だが、直ぐに気持は崩れた。

 論理の構造自体はそれほど難解なものではない。「秘蔵宝鑰」を読んでいれば、ほとんど同じ世界が同じ順序で眼前に展開されていく、ただし、更に詳細を極め、ボクのような門外漢にはまったく意味不明の専門用語が一行目から最終行まで撒き散らされて。

 訳者の懇切な解説にもあるとおり、「十住心論」は「秘蔵宝鑰」同様、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の世界を書いた異生羝羊住心第一から始まり、道徳・倫理の世界を書いた愚童持斎住心第二、宗教に目ざめた例えばバラモン教のような仏教以外の宗教的世界を書いた嬰童無畏住心第三、ここで初めて仏教に転じて、先ず声聞の世界を書いた唯蘊無我住心第四、縁覚の世界を書いた抜業因種住心第五、ここでこの「空海コレクション3」は終了する。特筆すべきことは、空海は密教と違う立場にある第三住心、第四住心、第五住心の世界を、つまり、仏教以外の宗教や仏教の声聞乗・縁覚乗を否定せず、必ず各住心の章の最後に「真言の密意」を書き、すべては法身仏の一部であることを明らかにしている。おそらく、この世に事実存在するものはすべて大日如来=法身仏がとって離さない、必ず成仏する、そんな確信が空海にはあったのだろうか。浅学のボクにはわからない。

 先にも述べたが、この本を読んでいて特に困ったことは、これだ。今まで仏教の修行は一切経験していないばかりではなく、ほとんど仏典の勉強でさえしていない、そんな無知の状態で、声聞乗や縁覚乗のさまざまな修行等を専門用語で説明している空海の文章、意味不明の言葉の世界に迷い、しだいに頭がぼんやりして、絶え間なく襲撃する睡魔と悪戦苦闘しながらやっと読了したわけだが、振り返ってみれば、ひょっとしたら、この難解な空海の文章を拝読するということが修行であり苦行ではなかったか、そんな思いに打たれた。読後、確かに解脱状態だった。

 ひとつだけ強く印象に残ったことを書いておきたい。-

 ボクは無宗教の人間なので、空海の言う第一住心の地獄に住んでいるのは論をまたない。個人的なことで恐縮だが、二年七ヶ月近く前にボクのワイフはこの世を去った。ボクラは四十三年間同じ屋根の下で暮らしたが、自営業をなりわいとして、仕事でも遊びでもいつもいっしょで、最後まで愛しあって、別れた。「空海コレクション3」の45頁の語釈に紹介されている火宅の八苦のうちのひとつ、「愛別離苦」(愛するものと離別する苦)と言ってよい。異生羝羊住心第一の畜生の詩で空海はこう書いている。

 

 相随は愛心をもて施して契を結ぶ

 必ず鴛鴦鴿鳥等に生ず(同書113頁)

 

 訳を引用すれば、「相随畜生は愛し欲する心をもって布施をし契を結ぶから、かならずオシドリ・ハトなどに生まれる」(同書119頁)。あるいはまた、こう言う。

 

 相随というは、もし人生死のための故に布施を行ずる時に、尋いで共に願を発す。当来世に於て常に夫婦とならんというもの、後に命命と鴛鴦と鴿鳥に生じて、多く楽しんで愛欲す。この類極めて多し。寿量定まりなし(同書114頁)。

 

 訳を引用すれば、「相随というは、誰でもがただ生死のために布施をなすときは、ついで二人ともに来世に再び夫婦となろうという願いを起こし、のちに命命鳥、オシドリ、ハトとなって生まれ、多く楽しんで愛欲をなす。この種類はきわめて多い。寿命の長さは定まっていない」(同書120頁)。

 すなわち、この世でボクラのように愛しあい契りあった夫婦は、輪廻して来世にはオシドリになってふたたび多く楽しんで愛欲をなす、こう言っている。ボクは時々「オシドリ」という言葉を思い出して、ひとりで笑っている。

 このように、ボクやボクのワイフのような人間、つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅などが住んでいる異生羝羊住心第一は、このたび読んだ「十住心論」ではどちらかといえば否定的に書かれている。ところが、先に「空海コレクション1」で読んだ「秘蔵宝鑰」では、異生羝羊住心第一が肯定的世界として、あえて言えば法身仏の一部として書かれているのではないか、地・水・火・風・空・識、六大ことごとくみな大日如来の身である、恐れるな、キミもキミのワイフも大日如来の身だ、空海はそう語っているのではないか、ボクにはそんなふうに思われて仕方がない。はなはだお恥ずかしい感想だが、何故かとても気になって一文した次第である。