芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

年末、モーパッサンを読む

 その昔、二十歳の頃、フローベールの「ボヴァリー夫人」を読んで、おもしろくないと思った記憶が残っている、ただ教養のために最後まで我慢して。もともと性急でこらえ性のないボクは、長編よりも、むしろ彼の後期の作品「三つの物語」などが好みだった。

 これが伏線だったろう。1880年(明治十三年)一月、モーパッサンの出世作「脂肪の塊」の草稿を読んでフローベールは激賞し、同じ年の五月八日に脳溢血で死去したのは有名な話だが、そして、確かに「脂肪の塊」はボクにもおもしろかったが、それから三年後、明治十六年、フローベールを敬愛した二十九歳年下のモーパッサンが「女の一生」を発表、作家としての地位を確立している。だが、「ボヴァリー夫人」の先入観が働き、今に至るまでボクは「女の一生」を読まないでいた。結局、モーパッサンに関して言えば、澁澤龍彦の影響もあって、「オルラ」などに代表される後期の短編が好みだった。このたび読み終えた本にも「謎」という短編が収録されているが、若い頃、この作品も好きだった。ちなみに新潮文庫「モーパッサン短編集第三巻」の青柳瑞穂訳では「謎」ではなく「たれぞ知る」と訳されている。

 

  世界の文学第24巻「モーパッサン」小佐井慎二、宮原信訳、中央公論社、昭和38年5月12日初版

 

 収録作品は、長編二編、「女の一生」、「死の如く強し」、短編六編、「墓おんな」、「牧歌」、「ベルド」、「夜」、「仮面」、「謎」。

 一読、「女の一生」から二九年後、明治四二年に発表された田山花袋の「田舎教師」がボクの脳裏に二重写しになってきた。時代背景としては、「女の一生」の場合、蒸気機関の発明による機械制大工場に代表されるイギリスの産業革命の前夜、19世紀前半、商品経済が地方にも浸透して従来の経済のあり方を破壊する過程で貴族や旧来の地主が没落してゆく、その没落貴族の女の一生を描いている。他方、「田舎教師」では、江戸末期から明治以降、西欧から遅れて資本主義の確立を急ぐ余り、日本は封建的な考え方・感じ方を残したまま政府主導で大工場を建設してゆく、文学の領域においても多くの知識人は西洋文学に憧れ、そうした作品を創造しようとして一握りの人は成功し、ほとんどの人々は挫折、彼等はふたたび封建世界の感性へ埋没していく、「女の一生」の主人公ジャンヌが旧来の貴族的感性を超えることが出来ず、かつての召使ロザリの世話になって余生を送る以外にもはや生きるすべはない、あたかもそのように、「田舎教師」も西洋文学への憧れを断念し、旧来の世界へ教師生活へ還る途上、病に倒れ、この世を去っていく……

 両作に於ける風景や場面設定の描写の精度の高さ、ボクは精度が高くなればなるほどいよいよ言葉は美しくなると思っているが、そんな味わい深いものを覚えなくもなかった。今にして思えば、明治四十年代、日本は経済のみならず文学の領域でも西洋に接近してきた、両作を並べると、そう首肯されなくもないと、ボクは思う。

 こんな妄想も抱いた……「女の一生」の主人公ジャンヌの夫が召使のロザリとの間に子供を作るのだが、ジャンヌの父の男爵は召使ロザリとその子供に農地を与え、何不自由もない生活の基盤を譲渡する。一介の召使に、しかも自分の娘の夫との不倫で生まれた子供に、なぜここまで? ジャンヌは母の死に際して、彼女の昔の手紙を読み、母が不倫をしていた事実を知る。ここから推論すれば、幼い頃からジャンヌをみていた召使ロザリは、ジャンヌの父の不倫の子だったのかもしれない、ひょっとしたらロザリはそのことを知っていて、生活能力のない晩年のジャンヌ、腹違いの妹の面倒をみたのではないか、こんなあらぬ妄想……

 今年の読書は、これで終了するのだろうか。読みたい本は山ほどある。かつて面白くないと思った「ボヴァリー夫人」も再読したい。しかし、待て、君の生きている時間? いったいボクの墓場への道のりは?