芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

シェリングの「人間的自由の本質」

 このところフォイエルバッハの本を読んでいて、彼が批判している哲学者のうち、私はこれを選んで読んだ。

 

 「人間的自由の本質」 シェリング著 西谷啓治訳 岩波文庫 1980年2月20日第26刷

 

 私にはこの本はよくわからなかった。その上で、この本の主旨を私なりにわかりやすく簡潔に表現しようとすれば、おそらく、こうだろうか。……もし神がこの世界を創造したとするならば、何故「悪」が発生したのか、最高善たる神が造った被造物から何故「悪」が発生するのか。この本は、この問いに答えることによって、神・人間(精神、神の似姿)・自然(人間以外の被造物)それぞれの本質と関係を明らかにせんとしたのだった。

 言うまでもなく、この論文は、神の存在を前提している。そして、神はそれ自身だけで存在する存在、そう規定されるのだろう。自然に対応する精神、この人間の精神に酷似する存在だろう。自然は自然のままでは非存在で、精神の中で初めて自然は自然として存在する。事実、シェリングは「神のうちの自然」を記述し、「神の人格性」を表現する。「神」は極めて「精神」に近い存在ではないだろうか。精神は神の似姿だ、そう言っていいのだろう。

 シェリングは、精神と自然、善と悪、旧約聖書的な表現をすれば光と闇、この二元性以前のただ一つの存在者、それを「無底」という言葉で表現している。この「無底」から分別された善と悪の戦いの中で、善は悪を無底へと再び返すことで苦悩の果てに歓喜が、勝利が、愛が成就する。従って、悪の積極性は、善を善として浄化する作用を担っているのだろう。一例をあげれば、ユダという存在が無信仰=裏切りによって、イエスは十字架に死に、三日後に復活しそして昇天した、かくして悪の働きは聖なるものをいよいよ浄化する作用としてその役割を果たすのであろう。

 学生時代、フランス革命に熱狂したシェリング、ヘーゲル、あるいはヘルダーリンは、革命の挫折後、ナポレオンが進軍する足音を聞きながら、周知のとおりそれぞれの道を歩く。もっとも早熟だったシェリングの場合、精神の闇の底、「無底」から分別され立ち上がった善と悪との哲学的内面劇、「人間的自由の本質」の世界を描いたのだった。