芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

神屋信子と「面」

2011年4月22日(金)、兵庫県立美術館原田の森ギャラリーで開催された「第56回新世紀神戸展」まで足を運んだ。お目当てがあった。神屋信子の作品「面」である。この「面」は抽象と具象の二面を貼りあわせている。そして色彩は赤を軸にした原色系。画面全体にヤモリに似たおどけた形象を数え切れないくらい組み合わせ、ため息で出来た短詩ともいえる言葉をあちらこちらに撒き散らしている。まるで「陽気なカオス」だ、多重人格だ。
ところで彼女とは三十年近く会っていない。

僕の手元に残された神屋信子の詩と散文は、時系列にそって述べれば、土星群第二号の詩「拘泥」「洗濯物」「絡まる」「化生」「深夜に猫を洗う」「へんしの季節」(1983年10月30日発行)。土星群第三号の詩「椅子」「柔らかな椅子」「交感する」「蛙」及び「編集後記」。関西文学11月号vol249の書評「山下徹の詩について」(1984年11月1日発行)。土星群第4号の詩「光景」「顔」「失礼」及び「編集後記」(1985年10月20日発行)。土星群第五号の詩「人形幻想」「針山」及び「編集後記」(1986年8月20日発行)。

土星群第二号に発表された「拘泥」は、駅前広場の自転車置場で倒れている自転車を見て、もとにもどすべきかどうかを自問自答したあげく、もとの姿に立ててその場を立ち去る自分の内面を言葉にしたものである。「倒されたものの無口な表情が好きだ」(第2連第9行)けれど、もとの秩序にもどして彼女は沈黙するのだろう。
「洗濯物」は、いわば「肉のぬくもりのある皮膚である」(第2行)。それを洗って、乾す、自分には見えない背面も外側に向けて。こうして「わたし」は内面も外面もさらけ出して空にぶらさげられているのに、猫や犬は毛皮につつまれたまま去っていく。つまり、我知らず内側までさらけ出すのが人間の特性なのだと。
「絡まる」は、おそらく今回出品された絵画「面」にもっとも近い感性で書かれた詩だと思う。もう三十年近い昔の詩ではあるが、人はいかに不易であるかを考える上で、この詩の前文をご紹介する。彼女の「面」と併せて鑑賞して戴きたい。

絡まる

箱のなかの ねこのねじれに
指をいれて
ねじれを確かめる
ねじれを逆にほどくプロセスは
飽きあきしているから
ねじれを更にねじる
指に力をこめて
はすかいにねじると
わたしの首もねじれて
ねじれとねじれがきつくからまって
ねじれあうものの穴から
やかましい内臓たちが
めざしやそらまめをくわえて
押し出されてくる
ほどけたい なんて
いまさら 言えない
ねじまがる首に
ねこの爪がささって
なじれめは
滲みてくるにがい血を
いっしんに吸っている

これ以外の彼女の作品も、場をかえて、あらためてご紹介したい。僕が彼女と同じ「土星群」で詩を書いていたのは、先に言った通り、もう三十年近くなるんですよ、今回の「第56回新世紀神戸展」の作品「面」はそうささやいていた。ありがとう神屋信子さん。僕の好きな言葉の中から、ちょっとキザになってしまうが、君の作品に贈りたい。
「君は同じ川に二度足を踏み入れることはできないだろう」(初期ギリシア自然哲学者断片集1.274頁ヘラクレイトス、ちくま学芸文庫)
「そうなったら、瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう、留まれ、お前はいかにも美しいと。」(ファウスト第二部ゲーテ作、岩波文庫462頁18-19行)