芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

フォイエルバッハの「将来の哲学の根本命題」

 先日、この著者の「キリスト教の本質」を読んだ。この本は宗教、特にキリスト教を論じたものだった。結論から言えば、神は人間の本質を超越的存在として人間の外部に人間が客体化したものだった。だから、神は人間の本質である、この命題は主語と述語を入れ替えてみても同じ真理を語っていた。つまり、人間の本質は神性である。この観点から、著者は厖大な資料を駆使して、宗教の本質を明らかにした。

 私はさらに進んで、同じ著者の哲学を主題にした本を読んだ。彼の主著の一つである。

 

 「将来の哲学の根本命題」他二篇 フォイエルバッハ著 松村一人、和田楽訳 

  岩波文庫、昭和43年3月30日第三刷

 

 本書は、フォイエルバッハの特に近世の哲学を主題にした論文だった。彼によれば、デカルトからヘーゲルに至るまでの哲学は、デカルトの「私は考える、私は事実存在する」、この原理を出発点にして成立しているのだった。従って、人間の本質を考えること、思うこと、思想、理性、知性、理念、こうした思考を第一義的に存在するものとして、哲学の体系を形成してゆくのだった。

 ここから当然、感性的存在の軽視、さらに無視・切り捨てが、デカルトからヘーゲルに至るまで組み立てられていく。フォイエルバッハは、彼らが軽視ないし無視した感性的存在から彼等がよって立つ現実を捨象した空虚な思想・存在者無き存在論を撃つ。思弁哲学系の思想が好きな方は、ぜひ解熱剤としてフォイエルバッハのこの本を読んでいただきたい。

 なお、この本は書名になった「将来の哲学の根本命題」の他に二篇、「哲学改革のための暫定的命題」、「ヘーゲル哲学の批判」も収録されている。一八四〇年前後に発表された論文である。いずれも素晴らしい天才のなせる業だ、私はそう思った。かなり長くなってしまうが、私が興味を持った文章の一端を以下に掲載して、この拙文を終えたい。

 

「存在は、なんら普遍的な、諸事物から切り離せる概念ではない。それは、存在しているものと一つである。<中略>したがって、諸君は存在を、全く同一的なものとして、本質の相違性と区別して、それだけで固定することはできない。諸事物から本質的な性質をすべて取り去ったのちの存在は、ただ存在についての諸君の表象―一つの作られ、考え出された存在、存在の本質をもたない存在にすぎない。(本書56~57頁)

 

「人間的なものが神的なものであり、有限なものが無限なものであるという、血となり肉となった、確固たる意識が、力、深さ、情熱においてこれまでのすべてにまさる新しい詩と芸術の源泉である。彼岸の信仰は、絶対に詩的でない信仰である。苦痛が、詩の源泉である。ひとつの有限な存在の喪失を無限の喪失と感ずる者だけが、叙情詩の炎を感じる力をもっている。もはや存在しないものの思い出の胸をそそる苦痛だけが、人間における最初の芸術家、最初の理想家である。しかし彼岸の信仰は、すべての苦痛を仮象とし、虚偽とする」(本書104頁)

 

「形而上学における、すなわち事物の本質における空間と時間の否定は、もっとも有害な実践的な帰結をもつ。ただどんな場合でも時間と空間の立場に立っている人だけが、生活においてもまた臨機応変の能力と実践的知性をもっている。空間と時間は実践の第一基準である。自分たちの形而上学から時間をしめ出して、永遠の、つまり抽象的な、時間から切り離された存在を神化する民族は、当然その結果として、また自分たちの政治からも時間をしめ出して、正義と理性に反し、歴史に反する固定原理を神化する」(本書109頁)