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後藤光治個人詩誌「アビラ」7号を読む。

 よく「心の世界」というが、いったいこれは何を指示しているのだろうか? 人間にだけ特有な現象なのか? それとも宇宙に無質量で偏在する或る本体が、他の生命体よりも人間という類にことさら強く作用した一現象なのだろうか? 物体や生命体を支体という言葉で表現すれば、宇宙の存在者は、本体即支体という関係なのか? そして、本体の波の強弱作用によってさまざまな物体から生命体までにそれぞれ特有の「心」が生成しているのだろうか? この個人詩誌を読んでいて、ふとそんなとりとめもない読後感を私は抱いた。

 

 後藤光治個人詩誌「アビラ」7号 編集発行 後藤光治 2021年9月1日発行

 

 それはさておき、この号では、まず七篇の詩作品が発表された後、「ロマン・ロラン断章」では[ジャン・クリストフ]で<自然>、<死>、<恋>、<神>を中心に言及し、[清水茂断章]では愛する子供と余りに早く死別した清水氏の愛別離苦を主題にした詩作品などが紹介されている。今回の「詩のいずみ」では石原吉郎の詩が論じられている。石原氏の作品から類推して、詩は、言葉が意識に先立つ行為だ、こう結論されている。何故だろうか、聖書風の文言が私の頭の片隅に浮かんでくるのだった、あのヨハネの言葉が。また、ずいぶん昔の私的な思い出話で恐縮ではあるが、石原吉郎と言えば、三十歳くらいの時、全集まで読んだ私の数少ない詩人の一人だった。

 さて、最後の「鬼の洗濯板」では、[昆虫の本能と意識]と題して、著者がドイツのフランクフルトの日本人学校に三年間派遣教員として赴任した折の余暇の断片が描かれている。それは、ロマン・ロランやゴッホ、アンリ・ファーブルのゆかりの地を訪れた旅行記だった。確かに、ファーブルは昆虫の本能の先端に神の光を見たのかも知れない。そもそも昆虫も人間も自力ではなく、ただこの世に与えられた存在ならば、本能や意識の先端に何ものかが接触していて決しておかしくはない。石原吉郎の場合、その何ものかから詩がやって来るのかも知れない。

 ついオシャベリが長くなってしまった。著者の刺激的な言葉に、我知らず調子に乗って浮き上がってしまった。最初に帰って、もう一度詩作品を読んでみよう。

 最初の四篇の作品、「台風」、「大浦」、「垣根」、「芋」は少年思慕詩篇ではあるが、強い抒情臭が発散するベトツイタ言葉ではない。私小説風な作品で、手抜きを一切せず、緻密な表現を構築して、遠い過去の世界を明るみへ出す。リアリズムの詩だ、といえばそう言えなくもないが、私はこれらの作品群を、神話的リアリズム、取り敢えずそう呼んでおこう。当たり前の話だが、特にこの著者の場合、表には打ち出さないが、構築された言葉の裏側に心の思いや心情がひっそり付着して離れない。それが、神話化の作用をしているのだろう。

 「カプサイシン4」は、著者には珍しく、笑いを表現したものだった。おそらく、これからが楽しみな世界だろう。「平和の塔」と「サイパン」の二作は、戦争を知らない世代が書いた、良質な反戦詩だろう。ここには、戦死したものの魂と、戦後、平和に暮らすものの魂の落差があった。