芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

星野元豊の「講解教行信證 化身土の巻(末)」 

 星野元豊の「講解教行信証」全六巻を読み終わった。長い浄土の旅から自宅に帰ってきた。自然虚無の身、無極の体。はたしてこの境界に達し得たか?

 思えば三十代前半、第二巻の「講解教行信証 信の巻」の道半ばで挫折。言い訳になるが、ワイフとふたりで商売を始めた頃。深夜、真暗な納戸兼書斎の卓上の電気スタンドに浮かんだ「講解教行信証」と岩波の日本思想体系11「親鸞」の二冊を前にして、正座したり胡座をかいたり、なんとか読了しようとして、必死になって食い下がったが、無知・無学の徒、ついに断念した記憶がよみがえってくる。もう三十数年が過ぎた。

 ちょうど二十八歳になる頃、星野先生にお会いしようと思う、突然そんなことを言い出した時、ワイフは快く「行ってらっしゃい」。フリーターだったボクに東京から鹿児島までの旅費を算段してくれた。あれから四十年。もうそこまで迫っているワイフの三年目の命日に、なんとか「講解教行信証」を読了して、「えっちゃん、やっと読みきったよ」、そう報告したい一心で、この二ヶ月余り、「教行信証」に浸りきった。そればかりではなかった。ご訪問した時、星野先生は今のボクの歳と同じ六十八歳で、ライフワーク、この「講解教行信証」の執筆に全身全霊を捧げているさなかだった 。ボクのようなわけのわからない若造が執筆の邪魔をして、ご迷惑をおかけしてしまった。しかし、お会いして、先生は無縁の大悲に生きておられることを、ボクは直覚した。「先生、ご報告が遅くなりました。やっと『講解教行信証』を読了しました」。

 

 「講解教行信證 化身土の巻(末)」 星野元豊著 法蔵館 昭和58年9月10日発行

 

 この巻の主題は、この世を人として安らかに健やかに生きていくには、釈迦の教えに帰依すべきことを、ボクのような無知・無学の人間にもさとすべく、出来るだけ噛み砕いて表現したのだろうか。ともすれば呪術・宗教的な天神地祇の崇拝や、卜占にたのみ吉日を選んでことをなす政治家・知識人から民衆まで、このボクを含めて、そういった無明の人々を仏の真理への道に誘う方便を説いているのだろう。だが、何故「顕浄土方便化身土文類」と題したのか、ボクには理解出来ない。ともあれ、本書から、こんなステキな文を引用しておく。

 

「宗教的世界は超俗的世界であって、俗的世界からは律しえない世界である。宗教的世界は俗的世界の絶対否定のところに成立しているものである。宗教的世界においては俗的なもの一切は絶対否定されるのである。そこでは俗的世界においての倫理・道徳すべてが絶対否定されるのである。<中略>。仏の立場からは一切が平等であり、一切が平等に衆生である。そこには階級もなければ、身分もない、生きとし生けるもの、一木一草、すべて平等である。」 (2113~2114頁)

 

 最後に「あとがき」から。

 

「『やっと書き上げた。』いまわたくしの胸は一杯である。

 この書を計画してから十四年、わたくしが『教行信証』にとりつかれてから、すでに四十年以上も経ってしまった。そして筆を執りはじめてこの『講解教行信証』に専念してから十年の歳月が流れた。」(2235頁)