芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「詩的現代」40号が、山中従子からやって来た。

 山中従子から詩誌が送られてきた。

 

 季刊「詩的現代」40号  2022年3月18日発行

 

 山中従子は「わたしは観葉植物」という作品を発表している。廃屋の居間の窓際に置かれたまま取り残された観葉植物、ペペロミアにたくして、終末の時を刻もうとしているのか。「未来が枯れる寸前」(本詩最終行)、静謐な居間に死の声が訪れるひととき、それはペペロミアのこの世での最後の生活だった。

 また、この詩誌の中では、藤井章子という詩人、私は一面識もないが、彼女の詩にはすでに多少触れていた。このたびは、「舞踏でおわろう」という作品だった。そこには、おそらくスポーツジムのレッスンで人生の最後を「舞踏」する或る肉体の姿が、既に晩年期のそれは過激な舞踏で酷使されてほとんど発熱状態のまま今まさに解体せんとしているのだが、緊迫した筋肉的言語で組み合わされて立っていた。

 やはり一面識もないが、この詩誌に登場する人の中に、高橋馨がいる。私は以前この詩人の詩集を一冊読んでいる。さて、高橋馨は牧野信一を論じた「牧野信一、ロマン作品の構造(改稿)」という作品を発表している。プラトンやフロイト、セルバンテスなどを引用しながら、大正末期から昭和初期に至る日本の時代変動の中で挫折した「父を売る子」牧野信一を「ゼーロン」を中心にして緻密に描いている。牧野信一の「書くという行為」とそれに応答した高橋の「書くという行為」が交錯した不思議な論文だった。言うまでもなく、牧野信一、三十九歳、彼はこの世の別れに先立って「く・び・つ・り」とつぶやいて縊死するのだが。……この文章を読んでいて、私事にわたって恐縮だが、私もひところ牧野信一を読んでいた記憶がよみがえってきた。十代に読み始めたが、そればかりではなく、二十代半ば、関西から流れて東京都港区神谷町のアパートに住んだ時、極めて貧困で、三田図書館まで足を運んで、牧野信一全集全三巻を読んだのだった。それ以来、一行も読んでいない。とても懐かしい作家をこの論文は想起させてくれた。

 高橋馨は、この詩誌で、もう一篇、「自宅が見えるところからのガーゴイルー写真の限界」を発表している。この作品は、ベンヤミンなどの引用文と著者の写真と詩で構成されている。自宅付近で出会う奇怪なもの・幻想的なもの・懐旧の情を誘うものなど、さまざまな風物を写真・詩・引用文で再構成した作品だった。一例をあげれば、駅のトイレの窓の景色からキリコの絵をこの詩人は幻想するのだった。