芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

鈴木大拙の「神秘主義」

 精神医学に従事していたミンコフスキーの「精神分裂病」を読んだとき、これは確か去年の九月の話だが、ベルグソンの思想に強く影響されている主旨が述べられていた。彼はベルグソンの前期の思想に影響されたのだろうが、私は後期の作品「宗教と道徳の二源泉」を読んだ。というのも、この間、私は第二次世界大戦に至るまでのヨーロッパの人々の精神状況を観察しているのだが、ナチスが台頭し始めたとき、フランスにあってその当時超一流の哲学者ベルグソン、言うまでもなく彼はユダヤ人であるが、どのような思いでこの書を執筆していたのだろうか、それが知りたかった。

 ベルグソンは、宗教や道徳が腐敗した現体制を維持する道具と化してしまった状況を打ち破り、新しいより人間的な体制を形成する原動力として、キリスト教神秘主義者に期待した。仏教の場合は、「さとり」を得た神秘主義者が自らを転じて慈悲の心で社会活動に打ちこむ場合はほとんど見かけないが、キリスト教神秘主義者は神人合一の体験後、一転して愛によって貧しい人々、虐げられた人々の救済活動に身を挺するのだった。ベルグソンはこのキリスト教神秘主義者の無私の活動に退廃した社会の変革を期待したのだった。こうしたところから、私はキリスト教神秘主義者の本を読み進めた。この本もその流れの中で読んだ。

 

 「神秘主義 キリスト教と仏教」 鈴木大拙著 坂東性純・清水守拙訳 岩波文庫 2020年5月15日第一刷

 

 この本は英文で一九五七年に出版されている。おそらく、この論説は英米圏の読者のために東方仏教、特に日本で展開された禅と浄土真宗の根源をキリスト教神秘主義者エックハルトの説教などと比較対照しながら、出来るだけわかりやすく紹介することを目的とした、英米人向け東方仏教啓蒙の書だった。ただ、神秘体験の根源を本来不可能な言葉によって表現せんとしているため、啓蒙の書を超えて、「さとり」体験を読者の眼前に描こうと悪戦苦闘した本でもあった。

 この本をどう考えるか。不勉強かつ無信仰な私には論じる資格などない。おそらく妄言に過ぎないが、「自分」中心主義で暮らしていたこの私が、突然、何ものかの恵みで、「空」中心主義に生きることを決定された人々、それがエックハルトや浅原才市だったのだろうか。この「何ものか」は、例えば、神であったり、無であったり、阿弥陀仏であったり、自然であったり、その人が生まれた歴史的・社会的状況の中で、さまざまな姿なき姿でその人の心の中に住んでいるのだろう、か。

 ただ、読後、私はいつものように六甲山を背に芦屋浜を歩き、海とその上に浮かぶ雲を見つめていたが、普段と何ごとも変わらなかった。「そのまま」だった。