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囚人番号432マリアン・コウォジェイ画集ーアウシュヴィッツからの生還ー

 人は、余りにも苛酷だった体験を、誰にも語らず、口をつぐんだまま、一生を終えることが多々あるのだろう。例えば、第二次世界大戦に敗戦後、自らの戦争体験を語らず、この世を去った元日本兵は数多いただろう。少なくとも、私の父はそうだった。

 ところで、その苛酷な体験が、人間であることを絶対否定された世界での五年間だったらどうであろうか? 殴打され、ジャーマン・シェパードに追い立てられ、強制労働から脱落して就労不能になればビルケナウの煙突から煙になる、五年間、シラミ以下の人間屑だとしたら、いったいどうだろうか? そのうえ、その五年間というのも、十八歳からの、まさに人生の正午にあたる五年間だとしたら?

 

 「囚人番号432マリアン・コウォジェイ画集―アウシュヴィッツからの生還」 マリアン・コウォジェイ画・文 中丸弘子・グリンバーグ治子編 悠光堂 2017年8月15日初版第一刷

 

 私の推定に過ぎないが、この発行日をご覧戴きたい。八月十五日になっている。おそらくこの日付は、編者たちのこの世の平和への強い願いと祈りが、託されているのだろう。

 横道にそれてしまった。歳のせいか、最近、私はよく横道に迷い込んでしまう。ほとんど横道だらけだった。

 この画集を手にする方は、オシャレな、センスバッチリの快適芸術作品を決して期待してはならない。ひょっとしたらあなたは両眼を鎖すことがあるかも知れない。しかし、作者が切に希望するように、一人でも多くの人がしっかり眼を凝らし、直視しなければならない。また、きっとあなたは直視するだろう。

 作者は、一九九二年、七十一歳になって突然脳卒中で倒れ、身体の一部が不随になり、リハビリのために、鉛筆をとった。その時、彼の脳髄にこの言葉が反響した。

 

 「あなたが生き残ったのは、

  生きるためではない。

  もう時間がない。

  目撃者として

  証言しなければならない」

  (ズビグニェフ・ヘルベルトの詩より)(本書の扉から)

 

 作者、コウォジェイは、一九三九年、ドイツ軍のポーランド侵攻の際、祖国ポーランドを守るためレジスタンス運動に参加、十八歳でゲシュタポに逮捕され、主にアウシュヴィッツ強制収容所に収容され、五年後、マウトハウゼン強制収容所に付属するエーベンゼー収容所でアメリカ軍に解放される。詳細は編者のグリンバーグ治子の解説に詳しい。

 驚いたことに、戦後、舞台美術家として生きたコウォジェイは、五十年間、家族にさえ、所謂「死の工場」アウシュヴィッツの体験について沈黙していた。だが、先に言ったとおり、リハビリのために握った鉛筆が、「自分でコントロールできなくなって」(本書5頁)、無意識に動く自動筆記の状態で、「アウシュヴィッツの真実それ自体」、つまり、ビルケナウの焼却炉で煙になった無数の人々の存在を写真に刻むように、あたかも彼等の生存写真を映すごとく、白紙の上を走り出した。

 

 「私が病気にならなかったら、アウシュヴィッツに戻っていたかどうかわかりません。私の絵は、病の結果です。絵を描くことが、私の生き残りのための戦いとなりました。少しでも病から逃れるための手段となったのです。」(本書4頁)

 

 そして、コウォジェイは自分が表現した絵の根源をこのように指し示す。

 

 「私が描く絵はひとつの言葉でなくてはならない、私は体験したことのすべてを一本の線に集約しなければならない、という結論に達した瞬間がありました。」(本書6頁)

 

 もう一言だけ書いておきたい。

 作者はアウシュヴィッツが建設された最初からの被収容者だったので、一九四一年八月十四日に餓死刑の末、まだ息があったためフェノール注射で殺害されたコルベ神父と収容所で出会い、神の愛をつぶさに視ている。コルベ神父に関しては、一九三〇年、長崎に布教活動のため来日しているのでご存じの方も多いだろう。「私には妻も子もあるので助けてください!」そう叫んで餓死刑を拒んだ見知らぬ囚人を救済するため、「私は神父で妻も子供もありません。私が身代わりになります」、そう言ってアウシュヴィッツで殉教したカトリックの神父だった。奇しくも、この画集にコルベ神父の姿が描かれているが、それ以上に、マリアン・コウォジェイの二五〇枚余りの厖大な作品群は、ポーランドのハルメンジェにあるコルベ神父をはじめアウシュヴィッツに消えた七人の聖フランシスコ派神父たちを記念する聖マキシミリアン・コルベ・センターの地下室に展示されている。それはさながら「死の工場」アウシュヴィッツで塵と灰と煙になった数百万の被収容者の人々が願わくは聖なれかしと。