芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「パウル・ツェラン詩文集」を読む。

 ボクはまだ二十代前半だったか、もう五十年近い昔の話になってしまうが、梅田の旭屋書店でこの著者の本を立ち読みした記憶がある。「迫る光」という書名の詩集だったと思う。何度か立ち読みした。言葉が発光しているのか、「痛いくらいまぶしい」、そんな印象を今でも覚えている。だが、何故か買わなかった。確かにその頃、とても貧乏していたのでお金がなかったのかも知れない。いや、それ以上に、詩それ自体のわかりにくさにあった。ボクには理解できない、というより、より正確に言えば、詩の方からボクを拒否している気持がした。

 さて、去年の十一月末頃から、ボクは所謂「アウシュヴィッツの文学」とそれに関連する本を読み漁っているが、避けて通ることが出来ない一つの門として、やはりこの著者の本を、あの頃より少しだけ貧乏ではなくなったボクは、買うことにした。

 

 「パウル・ツェラン詩文集」 飯吉光夫編・訳 白水社 2019年6月10日第六刷

 

 この本を何度も読み直してみたが、昔立ち読みしたときと同様、結局、わからない。若い頃なら、恐らくわかった顔をして事を済ませたかも知れない。しかし、だんだん墓場に近づく足音が聞こえる年齢になってみれば、そんな厚かましい顔なんてとても出来ない。当たり前の話だが、ボクにとってわからないものは、ボクにとってわからないのだ、この真実に従うことが生きるという姿だと、いつしかそう思うようにボクはなっていた。

 ところで、この本の詩を読めば読むほど、ますます理解不能状態に落ち込んでしまうので、ちょっと視線を変えてみた。散文で書かれた詩論、特に、「山中の対話」と「子午線」をこの順序で、つまり発表された時系列で何度か読み返してみた。もちろん、他の文章も補いながら。

 ざっと俯瞰してみると、詩という存在は、どうやら詩人自らの生きている時間をとおして、「別のもの」、言葉を換えて言えば、「一人の相手」をたずねて、語りかけてゆく、そういう著しく注目すべき特徴があるようだ。そればかりではなく、詩という存在は、詩人が生きている時間の中でのただ一回的な発語であり、取り消しがきかないもの、簡単に言えば、真実と同じで、後から加工したり装飾したり捏造したりして、立派な作品になってみたり立派な真実になってみたり、そのように変質するものでは無い。そして、ボクなりの結論を言ってしまえば、この詩人の場合、おそらく、彼の詩が語りかける「別のもの」つまり「一人の相手」とは、彼が最も愛した人、一九四三年、二十三歳の彼が労働収容所で強制労働しているとき、別の強制収容所で「うなじ撃ち」で銃殺された母であり、また、母につながる強制収容所等で虐殺された「ユダヤ人」という具体的な死者たちであり、だから彼にとっての詩とは、決して大袈裟な表現ではなく、「ユダヤ的孤独」を背負った彼の生命全体を彼等に投企する言葉だったろう。ここでユダヤ的孤独というのは、ユダヤの歴史を踏まえて、しかし、直接的には、ナチスドイツに人間であることを絶対否定され、現実に強制収容所等によって完全に人間であることを粉砕された状態、その中に存在する一個の人、そう考えていいのかも知れない。

 こうは言っても、ボクには彼の詩を理解できない。しかし、もう一歩先まで考えてみるならば、人間的な「理解」や「認識」を、彼の詩、彼の言葉は、あらかじめ拒否しているのではないだろうか? 何故と言って、彼は「ユダヤ的孤独」から、言い換えれば、人間であることを絶対否定された一個の人として発語してるのだから。人間的な「理解」や「認識」が絶対否定された、完全に破壊された状態から、発語してるのだから。だから、ボクがツェランの詩がわからない、そう「認識」したのだが、むしろ、その「認識」は大切にしておくべき事柄ではないだろうか。

 それからボクはこんな想像に耽っていた。……労働収容所で、朝も昼も夜も夜中も彼は黒いミルクを飲み、強制労働で苛酷な作業に従事中、彼の足もとに転がっている石が語っているのを知った。その石はこんなことを語っていた。ねえ、君が労働能力を喪失すれば、煙になって、あの広い空で楽しく住めるよ、ボクラ劣等なユダヤ人はみんなそうしてるよ、ユダヤ人の「人」はもうすっかり破壊され、犬やシラミ以下の得体の知れない物体になってしまったよ。ねえ、君、仕事なんて放棄して、焼却炉で焼かれて、煙になって、あの空でお母さんといっしょに楽しく暮らそうよ。足もとの石はそんなことを語って、沈黙した。

 確かに彼の詩はシュールレアリスムの「自動筆記」と似ているかも知れないが、言っておかなければならないのは、「無意識」からの発語ではない、ここだ。「無意識」は人間の属性だが、彼は人間であることを絶対否定された世界、「無意識」でさえ否定された世界からこの人間の世界へやって来た。彼の詩は、おそらく、石が語るように、頭が語っている。人間の属性が語るのではなく、頭それ自体が語っている、頭に刻まれた言葉がそのまま出てくる、だから、ボクには理解が出来ないのではないだろうか。

 また、ボクは、先に、彼の詩は生命全体を投企したものだ、そういうふうに説明した。事実、一九七〇年四月十九日、未明、ミラボー橋からセーヌ川に向かって彼は空中を飛んだ。空中を飛んで、セーヌ川に生命全体を投企した。その時、空中は語った。……完璧に粉砕された、完璧に透明になった、母さん! 空中はそう語った。四十九歳だった。