芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「恋愛詩篇 えっちゃんの夏」の拾遺抄を書こうと思う。

 不思議な縁でお付き合いのあるフランス文学の研究者で翻訳家のN氏から、先日出版した「恋愛詩篇 えっちゃんの夏」の読後の感想のお便りをいただいた。その中で、何故「この人」か、この問いが提出されていた。噛み砕いていえば、何故、私が愛したのは「えっちゃん」なのか、この人でなければならなかったのか、その理由を書いて欲しい、そういうことだった。

 おそらくこの問いは、えっちゃんの生前、ともに暮らしていた幸福な時間の中では、問われない問いだった。彼女の死後、初めて発語される問いだ、私はそう推論した。

 彼女の死後、これに関する事象として、この本の第二篇に書いている「青い光」を見た私の経験を指摘しておかなければならない。また、彼女の死後、余りに超自然的で神秘的な発言になってしまうと思い差し控えていたが、彼女の愛の波動をしばしば私は覚えるのだった。私がこの作品を書き続けたのも、きっとこの波動に応えようとしたからに違いない。

 従って、私の場合、愛の成就とは、二人の愛の波動が合流することだった。こんなことを言い出すと霊魂不滅説のようで、現代社会からは批判ないし無視されることは十分承知しているのだが。

 とにかく、私は力の限り具体的にこの愛の波動を書こうと決心した。これを書くことが、N氏の問い、何故<この人>か、この問いに対するひとつの答えになるのではないだろうか。題して、「えっちゃんの夏 拾遺抄」。

 

*写真は、2011年11月29日、インド旅行で。レストランの警備員とえっちゃん。私が撮った。この三年後の七月に彼女はこの世を去った。