芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「宗長日記」を読む。

 私は特段和歌や連歌や俳句が好きではない。この本を手にしたのは二十六歳くらいの時だった。ざっと読んだのかもしれない。記憶には残っていないけれども。おそらく著者が七十五歳から八十四歳までに書いた日記を読んだからといって、二十代の私がどんな感慨を抱いたのであろう。

 

 「宗長日記」 島津忠夫校注 岩波文庫 昭和50年8月10日第二刷

 

 この本の著者、宗長が生まれたのは文安五年(1448年)、この世を去ったのは天文元年(1532年4月11日)。八十五歳の生涯だった。

 連歌師の頂点を極めた宗祇の高弟。1502年、箱根湯本で倒れた宗祇を見送っている。また、この本の著者は大徳寺の一休宗純に参禅している。室町時代後期の連歌師だが、言うまでもなく応仁の乱が応仁元年(1467年)から文明九年(1477年)にわたって繰り広げられ、この日記は大永二年(1522年)から享禄四年(1531年)に成立したもので戦国時代に書かれた貴重な資料でもある。

 まず私の興味の第一は、連歌師はどのようにして衣食住を全うしたのか、ここだった。卑しい興味ではないかと言われようが、いかなる人であれ、当たり前の話だが、衣食住を満足させない限り、死ぬ。従って連歌師といえどもその例外ではなかった。宗長は何で飯を食っていたのか?

 今でいう外交官に似た仕事の傍ら、というよりその仕事が円滑にいくようにこの当時の文化人、連歌師として生きたといっても過言ではない。彼は今川家の文化使節であり情報屋だった。ひょっとしたらスパイに近い存在だったのかもしれない。従って、本書の大永七年(1527年、宗長80歳)から享禄四年(1531年、宗長84歳)の日記を読んでいただきたい(本書112~164頁)。主君今川氏親の訃報を聞きながらすぐに帰国しなかったため、どれだけの冷や飯を食わされたか、無残な思いを書き綴っている。

 その他にも、面白い話題が多々あった。ごく最近わが国でも話題になった稚児愛、少年愛、男色の話。この当時はそう言った性愛は異常でも何でもなかった。女人禁制のお寺、武士社会。彼等の連歌会の催しの際、酒や若衆が花だった。これが異常だと認識するのは、男女の一夫一婦制が前提になっている現代の資本主義社会が成立したからだろう。やっと同性婚も承認する時代になり始めているのだが。

 牢人(浪人)の世界を描いているのもこの当時を知るのにとても大切だろう。彼らを戦力にした争いが戦国時代の在り方だったのだろう。その中で、自死した牢人が描かれている(本書60~62頁)。衣食住を絶たれた人間のすさまじい姿だった。京都室町の中央権力の崩壊と並行して民衆の一揆も頻発していた。こうしたカオスの中で当時の一流連歌師が書いた日記だった。