芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

象皮のセカンドバッグ

 夜七時、銀座四丁目の新橋側の交差点手前、信号赤で停車。青に変わったのを確認して発進。交差点を渡り切った時、右方の横断歩道上に女性を発見。急停車するも、その女性と接触したのか。後部座席に座っていた私には、接触する寸前に停車したため事なきを得た、そう判断していた。

 それでも一応私達は下車してその女と話し合った。大丈夫ですよね……すると、左足の先が右前のタイヤで引かれた、痛い、痛くてたまらない、そう主張するのだった。たまらず私は反論した。でも、たとえそうであったにせよ、あなたは信号赤で横断歩道を渡ったのでしょう。狂気じみたまなざしで右前のタイヤを見つめている女に向かってこの事故の重大な過失、信号赤で横断歩道を渡っていた事実をまず指摘したのだった。

 命の前では、すべて無です。無過失です。あなたは、まず、あたしの左足の先の痛みを救済しなければなりません。……参ったなという顔をして運転していた息子が警察に携帯で連絡していた。だが電話している最中に、既に馬鹿でかい図体をした警官が目の前に立っている。黒人だった。笑っているようではあったがそれでいて内心は怒っているようにも見えた。銀座四丁目のこの時間帯はとても混雑しているので、五時間後、午後十二時にもう一度皆さん、ここに集合してください。人身事故ですね。その折、現場検証と共に皆さんの供述調書も取りましょう。

 彼は流暢な日本語でまくしたてた。確か我が国の人口の五十%余りは外国人で、残る日本人と言われている人も少なくともその七割は混血だった。おそらく私も息子も混血なのだろう。というのも私はベトナムへ一人旅した時、もう九年前に亡くなってしまったが、あのワイフと結婚したのだった。余談になるが、私の父は、戦争でビルマへ派兵された際、その地で結婚している。

 夜の海岸は穏やかだった。岸壁の鉄柵にもたれて私は海の果てを見つめていた。闇に沈んで、黒々と塗られた画面に五つ、小さな星が輝いていた。きょう一日なんだかんだわずらわしいことがあって、疲れ切って、ぼんやりしていたのだろうか。セカンドバッグを海へ落してしまった。中には家の鍵、携帯電話、そして六万円くらい入った財布。このセカンドバッグは象皮で出来ていて、二十年前に亡くなった母がインドへ旅行した折のお土産だった。私の体は条件反射で走り出し、岸壁から海へと下っているコンクリートの狭い舗道を駆け下りていた。

 この辺りだ! バッグが落ちた辺りを見定めて海へ飛びこんだ。だが思った以上に深く海の底まで潜るのは服を着たままの私には不可能だった。そのうえ穏やかだと思っていた海が大きくうねっているので、このままでは溺死する、無我夢中で私は舗道の端をつかんでしがみついた。はいあがった! 

 ずぶぬれで、ふらふらで、再び岸壁まで戻ってみると、息子が車で迎えに来ていた。

「お父さん、そろそろ十二時になる。銀座四丁目へ行こう」